これから大工さんになろうとする子供たちへの手紙

 小さい子がいるご家族の家を建てている時、建て主さんのお子さんが、数ヶ月間の大工の作業を見ていて、「ボクも大工になりたい」と言ってくれることが時々あります。そんな子供たちのために書き始めた手紙です。

 2008年ごろに書いたものですが、少し加筆してコラム覧に掲載しました。これから時間のある時に、わかりやすい絵や、次回以降の続きを書いていけたらと思っています。

高橋俊和


 

 H君、M君、こんにちは。

 

 おじさんが家を作っているあいだ、ずっと変わらずに君たちが示してくれた、やわらかに見守ってくれる愛情と笑顔、純粋な興味は、家を作る人たちにとっては、とてもうれしく、勇気づけられるものでした。

 

 家は生き物です。生命をもっている。こんなふうに言うと大人の人たちのほとんどは、たとえ話としてしか聞いてくれませんが、君たちのように、機関車にも木っ端にも虫にも命があって心があることを知っている子供たちには、きっとわかってもらえるだろうと思います。おじさんはそんな家を作ってもらいたいと思って、木の家が好きな人や、これから大工さんになろうとする子供たちに、おじさんが受け継いできたこと、仕事をしていて気がついたことをこれからお話しようと思います。

 

 おうちっていうのはとっても大事な、家族のようなものなんだよ。たくさんの人の智恵と力をあわせて作りあげるもんなんだ。愛情をそそげば家は良くなる。でも時間とお金がかかりすぎてしまうかもしれない。だから、家を作る技術というのは、どういうふうに、工夫をして、愛情をそそぐかっていう技術なんだよ。木や、土や、道具や、墨や、人に対してね。いちばん大事なことはね。人の心と、人の手が作るっていうことなんだ。どれだけみんなが心をひとつにして愛情をそそぐか、それがいちばん大事なことなんだ。でもひとりひとりちがう心をもった人間や、一本一本違う性格の木を、どうしたらひとつにまとめて、安心で美しい家を作っていくかということは、とてもむずかしいことだ。むずかしいことだけれども、そのことをあきらめずに一所懸命にやることが、大工というもののたいせつな価値だと思う。 

 

 心があって、それが手に結んで…庵っていう言い方を昔の人はするんだけど、庵を結ぶって、今はそんな言い方をする人はいなくなってしまったけど、みんなの心で、みんなで結ぶ。じゃあどうしたら結ぶべるか、おじさんが今まで経験してきたことを、うまくいったことも、とてもむずかしかったこと、失敗してしまったことも、できるだけ君たちに伝えよう。そうすることで、おじさんは自分の経験を、君たちのような子供の、清らかで正しい目で、見つめなおしてみたい。一生懸命に生きてまわりの人間の愛を結ぼうとしている君たちを見て、おじさんは、そう思ったんだ。 

 建物を建てる技術や、人との関わりをお話するのはむずかしいことですが、でも小学生の君たちにわかるようにやさしい言葉で伝えようと工夫することが、むずかしいことの中にあるシンプルな宝物のような真実を見つけていくことにつながっていくような気がしているんだ。 

 

 じゃあこれからお話をはじめるにあたって、なぜおじさんが建築の仕事を始めたのか、今までおじさんがどんな家を建ててきたのかを話そうね。

 


 

 おじさんが初めて建物に関心をもったのは、生闘学舎(せいとうがくしゃ)という変わった名前をもった建物に出会った時からです。その建物は伊豆七島のひとつ三宅島にあります。東京から船に乗って6時間以上かかる所なんだよ。1970年に、プロの大工さんではなく、素人(しろうと)の手によって、学校として建てられたものなんだけど、そこはふつうの学校じゃなかったんだ。

 

 大工っていうか、本当はすべての仕事も勉強もそうだと思うんだけど、一番だいじなのは自分の心が本当にそれを必要としているのか。学びたい気持ちがあるのかどうかっていうことのはずなんだ。教える教えられるという関係から出て、自ら進んで学ぶことで人間としての自立をめざそうとした学び舎なんだ。

 

 だからそこでは、自分たちの学び舎を自分たちで建てることからスタートしました。夜間中学をつくってきた人たちや、大学のあり方を考えてきた人たちや、男も女も子供も、いろんな人間がいました。最初は設計士さんに相談しながら、自分たちでやっていましたが、失敗もあったり、やり方がわからなくてどうしようもないほど困っていた時に、助けてくれたのが島に住む棟梁さんでした。

 島の宮下英雄棟梁を師(先生)として、五千本以上の枕木だけで、屋根も壁もすべて建てた人たちが、その経験を本に書いていました。

 

 そのころ、木を組んで家具を作る仕事をしていたおじさんはその本を読んで、とっても感動したんだ。そして、三宅島に行って実際に自分の目で見てもっともっと感動した。

 作っている人たちが困っている時に宮下棟梁が教えてくれたのは、「あいがきワタリアゴ」という組み方でした。古い正倉院の校倉造りと同じ種類の技術の方法なんだけど、少しむずかしいんだが、その日本の伝統の仕口を使うことによって、雨漏りもしないし、木の個性を生かせる方法だった。そしてその「法」を使って重い枕木ひたすらに正確に積み上げていったんだ。

 「素人だからこそまじめなスミ(木を加工する時のしるし)を。」「おまえたちに建てるんだという想いがあるかぎり必ず建つ。」という棟梁の言葉ではげまされながら、最初から数えると7年間ぐらい一所懸命に続けて、多くの人の工夫や協力をもらって、建物は完成しました。そして、みんなが悩んだり傷ついたりして学びながら作ったこの建物は、1970年の建築学会賞という、とても名誉のある賞を受けることになった。

 生闘学舎を建てた人たちと出会った僕は、ある日、彼らにどうしても質問したいことがあって電話をして聞きました。
「チャレンジってどういうことなんでしょうか。」
 すると、この建物の建設記録を書いた女性が電話に出て言いました。
「そうなのよね、最近チャレンジする人がいないのよね。ところで今、三宅島で家の模型を作っているんだけど、高橋君、助っ人としてやってみる気はない?」


  そのころ僕は、家具を作っていた。家具を作る仕事は充実していましたが、そんな質問をしたくなったのは、この学び舎を建てている場所で育った14歳の子が書いた「敗者よ再び挑戦者(チャレンジャー)たれ」という本を読んで、その中のチャレンジャーという言葉がボクの心に響いてきたからでした。

 そして、宮下棟梁に日本の伝統の技術とその考え方(技術思想)を学ぼうというグループに入れてもらって、はじめて建築の勉強をした。 僕は遠い三宅島で、手弁当で働き始めて、家を作れるようになっていったんだ。

「棟梁に学ぶ家グループ」て建てた建物
「棟梁に学ぶ家グループ」て建てた建物
「棟梁に学ぶ家-図解木造伝統工法 基本と実践」 
「棟梁に学ぶ家-図解木造伝統工法 基本と実践」 

 

 そこではいろんなことを学びました。特に印象に残っているのは、島の古い民家を解体した時のことだ。柱や梁をていねいにバラしていって、最後に残ったのは大黒柱と恵比寿柱、それをつなぐ大きな「地の桁」(牛梁・うしばり)だった。それが夕日に照らされてスックと立っていた。

 それは240年くらい前、大工さんがこの家の建前をした時に、そこから建て始めた姿そのものだった。江戸時代にタイムスリップしたみたいで、心をわしづかみにされて、魂の深いところに届いたように僕は感じたんだ。 

大黒柱と恵比寿柱、それをつなぐ牛梁。この写真は2017年の建前の時のものです
大黒柱と恵比寿柱、それをつなぐ牛梁。この写真は2017年の建前の時のものです

  僕は新米で最初は助っ人だったのが、どんどん本気になっていった。島での修業と勉強は、昼間の肉体労働も夜の記録作業も、あまりにも厳しかったんだけど、家を作れる喜びと、そんな心おどる日もあったから、がんばることができた。

 そして僕たちが家を作ったり、本を書いたりしたそういう努力ができたのも、はるか昔の人から宮下棟梁に伝えられてきた大切な「技術と道理」を、絶やさずに、次の世代に伝えたいと思ったたくさんの人が、この「棟梁に学ぶ家グループ(代表・深谷基弘)」を支えて引っぱっていってくれたからなんだ。


 

 この場所で経験したことの中で大きかったのは、三宅島っていう離島で何かを作るっていうこと。何でもお金さえ出せばすぐに手に入る町中で建てるのとちがって、島で家を建てるということは昔からその島にあるもの、材料も人も使って、工夫して結んでいくっていう作り方の伝統があった。漂流して流れ着いた難破船のマストなども使われたりしていました。(→参考〈施工例・樹のいのちに耳を澄ます〉) 

 宮下棟梁は若い頃、東京に修業に出て、仰木魯堂(おうぎろどう)という建築家の下でりっぱな建物を経験してきたそうですが、島に帰って、村人のためにいろいろな工夫をして建物を建てました。 

  埼玉に帰って最初に建てた建物は「山猫軒」(平成元年竣工)です。三宅島の棟梁から学んだことを、その原理原則を忠実に守ってスミカケ加工して、でもデザインは変えて、建て主さんといっしょに建てました。このころ、金物を使わないで木だけで組む家を建てる人は、回り中ほとんどいなかった。でも建て主さんは、時間も手間もかかるけど、この伝統工法がとても大事なものだってわかってくれた人だったんだ。

 

 「樹の家」や「尺角の家」はその後、十年ぐらいたって建てた家だけれども、はじめに木があった。わざわざ家を建てるために買った木でなく、台風で倒れてしまって出てきた木や、山に放っておかれた木を、「かわいそうな木に屋根をかけてあげたい」と願って、そして、大きい木を板や角材のように細かくしてしまわないで、長く生きてきた木の尊厳を大事にして、大きいまま使ってあげたいと考えたある一軒の材木屋さんと出会ったことから始まりました。島にある材を活かして作るという宮下棟梁の考え方は、こういう仕事にもつながっていったんだ。

 棟梁から教えてもらった「基準の水墨(ミズズミ・水平のスミ)と真墨(シンズミ・垂直のスミ)」の考え方を使ったから、こんな変わった木にも、他のまっすぐな木をガッチリと組み込んでいけたんだ。 


 

 そして、今までうちの若い大工さんたちと一緒にたくさんの住宅を建ててきました。去年は住宅の他に、江戸時代の本居宣長という人が住んでいた「鈴屋(すずのや)」という部屋をよく見てきて剣術道場の二階に再現する仕事をしたり、今年はお寺の境内に「薬師堂」という小さなお堂を建てる仕事もさせてもらいました。


 

  おじさんがおもに使っている技術は「伝統工(構)法」といいます。それはどんなものかっていうと、「木と木を、仕口・継ぎ手を用いて組み合わせる方法」です。日本は世界の中でも、とりわけたくさんの森におおわれた国なんだ。だからたくさんある木を使って、いろいろなものを作る工夫を日本人はしてきた。家もその中のひとつです。千三百年も昔の建物が今も残っているんだよ。家を建てる技術は何千年も前からずっと、たくさんの人たちの智恵を働かせて進歩してきたんだ。 

 

 これから毎回、おじさんが経験してきた建物を中心に、例をあげながら、建物の技術のこと、形のこと、歴史のことなどをお話していきたいと思います。  (…つづく)    

  


次回のお話の予定は…

★一回目のお話  我が師、三宅島の棟梁のお話

★二回目のお話  家の骨組みのいちばん基本(鳥居型構造)のお話

★三回目のお話  アンパンマンと仕口のお話

★四回目のお話  曲がった梁と水墨(ミズズミ)

 

参考→「和する技術と総持ち