これから大工さんになろうとする子供たちへの手紙-その2

我が師、三宅島の棟梁のお話」

 H君M君、今回はおじさんの大工としての先生である宮下英雄棟梁のお話をしたいと思いますが、その前に、二人がおじさんの家(樹の家)に来た時の話からはじめましょう。空洞のある大きな自然の姿をした木が家の中に立っていて、その洞(ホラ)に吊るされた縄ばしごを使って、1階と2階を何回も行き来しましたね。その後も、たくさんの子どもたちが柱の中を遊んでいきました。夢中になって上り下りする君たちは何を感じたでしょうか。



 初めてこれを見た人はこの場所にもともと立っていた木と思うかもしれませんが、もともとは和歌山県の高野山というところに立っていたのですが、空洞が大きくなりすぎて倒れたらあぶないという理由から伐られたのだそうです。そして、いろんな事情から材木屋さんが埼玉に運んできた杉の木なのです。 
 また、この木は真ん中が洞になっているので、ほんとうの木の年れいはわかりませんが、木に詳しい人は700年くらいだろうと言っています。
 中に大きな洞があって材料としては使いづらく、普通なら小さく切られて薄い板になったり、輪切りにしてテーブルになったりするに違いありませんでした。そんなことになったら長く生きてきた木の精霊さんに対して申し訳ないと思って、おじさんはちょっと常識はずれかもしれないけれど、自分の家の中心の大黒柱(家の中心に立って家全体を支える一番大事な柱)として使わせてもらう決心をしました。

大国柱になる前の木
大国柱になる前の木
「樹の家」建前
「樹の家」建前

 でも実を言うと、はじめはためらいがありました。だって普通の大黒柱は大きくても30センチ角ぐらいなものなのに、この木ときたら直径1.5メートル、重さは800㎏もあるんだから、運ぶにしても加工するにしても、大変でむずかしいということは誰が見てもはっきりしていましたから。

昔ながらの民家の大黒柱と下大国(恵比寿柱)
昔ながらの民家の大黒柱と下大国(恵比寿柱)
「樹の家」の構造図
「樹の家」の構造図

  材木屋さんもそれは十分にわかっていたけれど、それでも長く生きてきた木の尊さを大事にして、大きいまま使って欲しいと強く願っておじさんのところに話を持ってきたのでした。

 ただ、おじさんがなぜそんなことを決心して、実行してきたかというと、前回のお話の中で紹介した三宅島の宮下棟梁という先生[師]から、木の建築の仕事を学んできたからです。

 

 というわけで我が師、宮下棟梁のことに話を進めたいと思います。


「宮下棟梁のこと」

  宮下英雄棟梁は大正3年(1914年)に伊豆七島のひとつ、三宅島という離れ島に生まれました。太平洋に浮かぶ周囲25㎞ほどの小さな火山の島で、昔から噴火や台風が多いとても厳しい自然の地として有名なところです。


 きびしい自然を生き抜くため、村人たちの結びつきはとても強く、宮下棟梁はそんな島が人一倍好きでした。また、その時代の棟梁というのは、大工さんたちを集めて家を建てるだけが仕事ではなくて、村長さんのような役割も果たしていました。宮下棟梁のお父さんは大工棟梁でしたが、「木挽き」(コビキ/木を柱や板に製材する人)でもあり、江戸時代に生きたお祖父さんは「杣」(ソマ/山から樹を切り出す人)でした。その時代の杣というのは山のことを一番良く知っている智恵のある立派な人で、昔は大工棟梁よりも尊敬される人だったんだ。そして生まれをもっとたどると「お宮」(神社)に仕える家柄だったので「宮下」という名前だったそうです。

 そんな家系に生まれ育った宮下棟梁は、15才からお父さんの元で大工の修業を積んだ後、19才の時に反対を押し切って島を出て、船大工などの仕事も経験して、前回でも触れましたが仰木魯堂(おおぎ ろどう)という有名な茶道の先生の設計したお茶室や、「三井家」といった当時の身分の高い人の邸宅などを造り、最後は護国寺という有名なお寺の「多宝塔」という円形をした難しい仕事を手がけられるぐらいの技術を身に付けました。
 宮下棟梁はその時代に手がけた仕事のレベルについて、普通の家の30倍ぐらい高価で、手間暇を惜しまない建物だったと語っています。
 しかし、東京での修業を終えた宮下棟梁は島に戻って家を継ぎ、村のために生きる道を選びました。

 

 おじさんが宮下棟梁のことを尊敬するのは、立派な建物を造ることのできる技術を身に付けているのに、腕前をひけらかしたり、技術にあぐらをかいたりすることなく、村人のために尽くす生き方を貫いたことです。

 棟梁にまつわる話で特に印象深いものに、「三宅タワー」の話があります。
 ついこの間、天皇を退位された上皇様が昔美智子様とご結婚された時(昭和34年)に、そのパレードがテレビで初めて全国生中継で放送されることになったんだけども、三宅島は遠すぎてテレビが写らないことがわかり、島の人たちはとてもがっかりしたそうです。そこで宮下棟梁は電波をしっかり受信するにはどうしたらいいかを自分で研究して、「4段スタッコ」という特別なアンテナを作って、高さ二十数間(約40m以上)の木の柱を立てて取り付け、見事にテレビ放送をみんなで見ることができるようにしたそうです。そのアンテナの技術は日本ではまだ誰もやったことのないもので、その塔は島の人からは「三宅タワー」と呼ばれたそうです。棟梁はその工事の時に高いところから落ちて大けがをしましたが、その後元気になり、文字通り命がけのこのタワーのことは長く村人に語り継がれることになりました。
 また、1983年に三宅島が噴火して集落が溶岩で埋まってしまった時は、おおぜいの住民の家を造って村を復旧させましたが、素人でもできる仕事を工夫して建築作業に参加させるなどして、安い金額で短い期間に多くの家を建てた、その働きは多くの人から感謝されました。


  そんな宮下棟梁の技術の高さや人間としての大きさや偉さに気付いたのが前回紹介した生闘学舎」(せいとうがくしゃ)の人たちでした。

 学舎の建物の材料は全て枕木(鉄道に使われた)だということはお話ししたよね。
 実は枕木というのは、確かに木なんだけど、木の仕事をしている人たちにとっては全然使いたいとは思わない木なんだ。   (生闘学舎 ネット画像にリンク)


 なぜかというと、地面に長いこと敷かれて汽車や電車が通っていたものだから、たくさんの土とか大小の石が深くまで食い込んでいて、レールを止めるためのボルトなんかもそのまま残っていたりして、カンナやノミといった鉄の刃物で加工しようとしてもあっという間に刃先がボロボロに欠けてしまって、きれいに削れないのです。

 普通に考えれば、優秀と言われるような大工さんであればあるほど、枕木をわざわざ使いたいと思う人はいないでしょう。
 でも、宮下棟梁は枕木を拒絶せずに、枕木がもっている特徴を生かすための技術を教えてあげたのです。枕木を材料にして本気で建物を建てようとする人たちに向き合い、むしろ枕木やその人たちから学ぼうとしたのではなかったかと、思うのです。
 みんなは、木の善し悪しとはなんだと思いますか。
 ふつうは大工さんは、曲がらない、ねじれない、反らない、節がない、色ムラのない、成長が遅くて長く生きた木が好きです。それは造ったものが長持ちしたり、綺麗に見えたりということもありますが、苦労少なくれるからでもあると思います。設計する人も家を建てたい人にとっても、普通はそんな木が「良い木」で、その反対は「悪い木」なので、枕木は間違いなく「悪い木」といってよいものだったのです。


 宮下棟梁はどんな木も人も差別なく、それぞれが持っている良さや役割を見つけ出し引き出すことのできる知恵を持った棟梁でした。技術に対してはとてもきびしい人ではあったけれど、みんなが持っているような純粋でとらわれのない柔らかい子供の心を持ちながら、強い好奇心と挑戦する精神力で物事に接することのできる人だったのだと思います。

 それでも棟梁は口癖のようにいつも言っていました。「すべては道理だよ」「俺が特別に考え出したものは何もない、聖徳太子の昔から人間が考えてきたことだよ」「昔の人は偉いよ」と。


 というわけで、おじさんがみんなに知っておいてほしいのは、大工というのは単なる技術者ということではなくて、長い歴史の中で棟梁から棟梁へと受け継がれてきた魂があるということ。それから日本人には縄文時代の昔から「木の文化」がありました。木というものに対しての深い祈りの気持ちがあって、「自然」を敬うことから「木の技術」が生まれてきたと思います。

 だから僕は、とても大事なものとして受け継いでいきたいし、君たちにも伝えていってほしいと思うのです。

 その内容は次の回から詳しくお話していきましょう。 

 


★次回のお話の予定 … 「建物の構造・基準と道理のお話」