二人の棟梁と結

 (1994年に民映研通信に掲載したものです。)

 私は伝統工法を中心に、木造建築の設計と大工を主な仕事としているが、昨年(1993年)8月から岐阜県白川村の合掌造り民家の技術伝承事業に、民族文化映像研究所の調査、記録スタッフとして加わってきた。そしてようやく、その結果として、『合掌造り民家はいかに生まれるか-白川郷技術伝承の記録』が出版されることになった。(映像記録はビデオ「白川郷の合掌民家一技術伝承の記録」として、すでに完成している。) 

 民家の調査は私にとって今回が2回目である。正直に言って、「調査」という言葉には抵抗がある。民家は歴史をきざんで今までを生きてきた生体であって、私にとっては単なる建築物ではないと思えるからである。 

 前回は三宅島であった。白川郷にも三宅島にも、きびしい自然の中での人々の営みがあり、家はその中から生まれた結晶である。 

 私はこの2の民家の里で、2人の棟梁に出会った。三宅島では宮下棟梁、白川村では今藤棟梁である。宮下棟梁は、子息と共に島で工務店を営む現役の棟梁である。私はちょうど10年前に「棟梁に学ぶ家」グループの一員として、宮下棟梁に師事して、木造伝統工法を学んだ。宮下家は祖父が杣(木挽)の棟梁、父が大工棟梁という3代続いた棟梁の家系で、ルーツをたどれば、お宮に使えるという意味から宮下という氏がつけられたとも聞いている。 

 

 棟梁は様々な話を聞かせてくれた。自然のきびしさに関する話(台風、季節風、地震、雨、白アリ等)、修業時代の話(命がけで技術を身につけていった等)、村人のために無償で道路を切り開き、消防隊を組織し、テレビの8段スタッコアンテナ(おそらく日本で最初)をつくり、風力発電を試みた等の話、そして「家をつくるということは、道具をつくることであり、手をつくることであり、身体をつくることだ」と語り、さらにそれが、人をつくり、村をつくることへとつながることを示してくれた。 

 仕事は大工工事だけに限らず、コンクリート、石、板金、アルミサッシなど建築にかかわるほとんどの工事を手がけ、そして、様々な技術や道具を工夫してつくり、女性や老人でも働けるような仕事を用意した。村内では村長的存在であり、小柄な細身ではあるが、眼光するどい棟梁であった。 

 一方、白川の今藤棟梁は、すでに大工としては第一線から退かれており、今は自宅隣にあるご自身の作業場で身近な生活木工品をコツコツとつくられている。棟梁というよりは、翁という印象の方である。今回の合掌造り民家の移築では、数少ない合掌造り民家を建てた経験のある大工棟梁として、指導をしていただいた。作業場には多様な生活道具類(ゲタ、農作業用の風車等)をつくるための様々な工夫がされた機械、道具、材料や製品が所狭しとおかれ、建物とそこにある物たちと人間が同化して、全体が今藤翁自身であるような空間をつくり出している。白川では男の多くは半大工、半杣であったと言われるが、今藤さん自身もそんな村の人間なんだとご自身を語られたこともあった。また、ほぼ決まった時間になると杖を片手に大きな双眼鏡を入れた手押し車を押して、ゆっくりとした散歩に出かけられる日課である。小柄でふっくらとした体型のやさしい眼をした翁、それが今藤さんである。 

 年齢はほぼ同じぐらいの2人の棟梁のこの違いに、私は少なからずショックを覚えた。一方にエキスパートとして尊敬する師、宮下棟梁、他方に自然体に生きながらも、好奇心旺盛に多様なものをつくり続ける今藤翁。どちらがいいとも悪いとも言えない、対称的な生き方、価値観を、そこに見たのである。 

 

 さて、棟梁以外にも出会ったものがある。結(ユイ)である。結の存在は宮下棟梁からすでに聞かされて知ってはいたが、本を読んで知っているのと同じ程度の理解だった。結とは、教科書的に書けば、村落共同体における相互扶助のことで、普請、加勢などと各地方で様々な呼び名があり、人手のいる仕事を人手の貸し借りでおこなう仕組みである。白川では石場カチ(礎石を地面にかたく打ちすえる作業)や茅屋根葺きなどが結で行われた。

 そしてある時、姫田さん(民映研所長)が辞書の『大言海』をひいて、「おーっ」と感嘆の声を上げた。そこには「ユイとは、ゆるんだものをしめること」とあったのである。簡潔に結の本質を言いえているように思われた。 

 白川村の谷口教育長は、ある宴席で「結というのは誰がリーダーとか、指導者とかというんじゃない。皆、小さい頃から結に参加する中で、自然と自分の性格や個性にあった役割を見つけてしまうんだ。みんなが自然に、そして自主的にひとつになる。これがほんとの自主性っていうやつだろう。今の教育はここんとこが一番欠けてるように思う」と話されていた。また今藤さんによれば、結に出て、その日の一食を得ることが楽しみで手伝う人もいたと聞く。 

 いずれにせよ、教科書的な理解だけではとらえられない、心の動きや人間関係までも含めた人の営みそのものが結なのである。 白川村には多くの茅屋根が残っているのに比べ、三宅島では草屋根の家はほとんど見られない。そして、屋根の葺き替え作業を結でやるということも絶えて久しい。近代の波が押し寄せるたびに、あらゆる場面から結は急速に消えていったのだろう。  

 しかし、宮下棟梁は、近代に包囲されつつも懸命に結に生きようとしているように見える。一方で、今藤さんはどうだろう。宮下棟梁とは逆に、結にはぐくまれながら、たんたんと生きているように、私には思える。白川での合掌造り民家の解体、移築作業を通して、その作業過程をつぶさに見、その中に身を置いて感じることは、白川には結の精神とその姿が今も生きているという実感であった。 

 

 合掌造り民家はまぎれもなく結が作り出した産物である。全国の民家が、いや世界中のヴァナキュラー(風土的)な民衆の建築物が、結か、あるいはそれに似た何らかのシステムによって生まれてきたのではないかと想像される。自然の中で人間がいかにして生きていくかを探った結果としての組織的な姿が結だとすれば、その形態や仕組みが各地方、民族によって異なるのも自明である。そして、各々の精神性や思想性や文化が反映されてもいるだろう。 

 今や私たちは、近代システムの真っ只中にあって、精神文化としての結に接することは稀となった。宮下棟梁はよく言った。「すべては道理だよ」棟梁の言う道理とは、実は結の底に流れる精神性につながるものだったのではないだろうか。近代の合理思想に対して、道理はどのように持ちこたえたのだろうか。あるいは持ちこたえられなかったのだろうか。民映研の映像記録は、まさにこの間にあって推移する一瞬一瞬の現実の姿を見据えているように思える。そして、姫田さんのいう「行為のディテール」の中に、その間で揺れ動く姿が映し出されるのだとしたら、今回の白川での仕事は、映像記録も出版物も、共に技術伝承以外の、こうした視点からも読むことができるように思われる。 

 私の仕事はといえば、なぜか民家に導かれるようにしてやってきたこれまでの仕事から学んだ知見を、建築という現在の営みに返していくことだろう。合理的に巨大システム化された今日の建築形態が生み出したプラスとマイナス。そして、私もその中の一員として、伝統工法と近代工法の間を揺れ動きながら、現実を生きているのだが、できればその中から、道理(合理を包括する)が導くだろう新しいパラダイム(規範)としての建築形態のあり様を模索していきたいと思っている。


2013年7月29日、民族文化映像研究所の名誉所長、姫田忠義氏が永眠されました。享年84歳でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。