当ホームページでは、「セルフビルド・ハーフビルド」のページを閲覧する方が増えてきました。そこで1993年に「ワードマップ 現代建築-ポスト・モダニズムを超えて」(1993年、宮内康・布野修司編 同時代建築研究会著  新曜社刊)に寄せた一文を加筆し、掲載することにしました。 

 家を建てることは、多くの人の協力を必要とし、決定すべき項目(工法、仕様、素材)、膨大な作業の量、建築条件などにより、乗り越えなければならない多くの壁があります。それはプロであっても大変な仕事です。アマチュアがセルフビルドをしようとする時に大事なことは、自分が作業に関われる範囲です。体力、経済力、時間をはかりながら、どこまでをプロに頼み、又は学び、どの作業を自身でするのかによって、家づくりを楽しむこともできれば、予想を超えた困難に出会うことになってしまうかもしれません。

 どなたにもお勧めするわけではありません。しかし、いずれの方法を選んだとしても、その経験は貴重なものになっていくと思います。

 

 


セルフビルド ― 精神と肉体の二重ラセン

 

  セルフビルド ― 「自力建設」は、現代日本においては特殊な建築形態であると見られがちであるが、視野を広げ、時を遡れば、もっとも古い歴史をもち、広汎な地域で多様につくられてきた形態であり、建築の原点と言ってもよいものであることに、すぐに気がつく。

 ただ、正統といわれる建築史のなかで位置づけられたり、取り上げられることが少なかったために、また産業化社会の深化に伴って分業化が進んだことなどが原因で、人々の意識や生活から遠ざけられてきているにすぎない。世界を見わたせば、自力建設による風土的建築は今も生きており、目本においては各地の伝統的民家が、棟梁を核とする村落共同体住民による自力建設として長く生き続けてきた歴史がある。
 こうした無名の風土的建築については、バーナード・ルドフスキーが『建築家なしの建築』などの著作のなかで、すでにその価値や意味を提示している。筆者がこの項で考えていきたいのは、多様な自力建設のなかでも、むしろ今に生きる現代人にとっての、現代建築としての〈セルフビルド〉についてである。そしてそれを考えていく上で、特に意識しておきたいと思うのは、ルドフスキーも指摘しているように、「解釈よりもむしろ思索に基づいて建築全体の新鮮な資産評価を行なわせよう」という基本姿勢である。
 また、建築家との関連においては、「アーキテクト・ビルダー」(建設家と建築家がひとつになった職能)と建主による新しい建築のシステムを構築することによって既存のパラダイムの転換を計り、現代建築の諸問題を解決しようとしている、C・アレグザンダーの試みがある。それは〈セルフビルド〉がもつ実験性と可能性の一端を示しているものだと言ってもよいように思われる。
 〈セルフビルド〉はその性格上、きわめて多様で、未熟練的であったり、様式が不統一であったりしがちなために、教科書的な考え方や見方からは受け入れられにくい面を多く持っているが、そうした表面的で単眼的な視点からは捉えることのできないものがそこにはあるということを念頭においておく必要があるだろう。


 そこで、多様な〈セルフビルド〉の全体像を把握するために、次の六項目 ― ①主体、②時代背景、③場所、④用途、⑤目的、⑥材料・工法 ― について、分類、整理して考えてみようと思う。そして、それに基づいて、〈セルフビルド〉を次のように定義してみた。「ある建造物を建設していく時、その過程において、そこに主体的に関わる人が、雇用関係などの契約に基づく関係を離れた立場で、作るための肉体作業に直接従事する場合、その行為を〈セルフビルド〉という」。
 現代における〈セルフビルド〉は、少なからず自己実現という側面をもっているが、その一方で逆に自己そのものが試される場にもなりうる。自己への過信やそれに基づく理想や夢、また自分でも気づかなかった自己中心的利害といった内実が、作業を通して展開される様々な現実によって露呈され、打ち砕かれる。時として〈セルフビルド〉が苦悩に満ちた姿となって現われることがあるのは、   そうしたことが一因となっていると言えるだろう。
 筆者は設計と施工という二つの船に片足ずつを乗せながら建築の仕事に生きている者だが、そうした身辺で直接見聞きすることのできた、それぞれに特色のある〈セルフビルド〉の実際例を次にあげて、前記の定義と分類に基づいて考え、その姿を浮かび上がらせてみようと思う。

 


生闘學舎・자립

 丈夫さ、安価、再生の材料を使いたいという建主からの要望に対して設計者は枕木を提案した。枕木の建材としての多くのマイナス面は、結果としてプラスに転化され、この建物は日本建築学会賞(1980年度)を受賞するに至ったが、完成まで六年の歳月を必要とし、多くの苦汁に満ちたプロセスを通過しなければならなかったことは、設計者も建主も予見できなかったようである。
 しかし、この建主でもある作り手たちは、三宅島で試行錯誤の最中に宮下英雄棟梁と出会い、その道理の力を借りて、使い古され糞尿にまみれ、安易な装飾を一切拒否する素材としての鉄道枕木五千余本を使って作り上げた。長さ210cm 50kgの一本一本の高さ、ねじれ、ゆがみ、そりの違うその表情そのままに、構造の力と美しさを引き出す伝統の組手のひとつ「相欠ワタリアゴ」を使って、一本一本丹念に手作業で加工し、徹底して積み上げた。

 それは竣工後出版された「生闘學舎建設記録(修羅書房1982年)」によって、この建物を建てた人たちの目的(全共闘運動、公立・私設夜間中学運動敗北をふまえた敗者復活戦としての学校建設)や思想(人間の歴史のなかでの敗者に基準を置いて人間の自立をめざす敗者復活戦の法則=コヤシの思想)に基づいて表現されたものだということを知ることができる。そして、その建設過程では様々な人間どうしの葛藤や修羅場が繰り広げられ、去る者や傷つく者も出たようであるが、常に考えが主で、建物は従という原則に立って解決の方向が探られ、建設が進められた。
 こうして、そのプロセスのすべて(ひとりひとりが背負っているものや考え方を含めて)が枕木一本一本から構造の全体に至るまで刻印されることになった。生闘學舎の思想が建築(方法・構造・形)に具現化されたと言えるだろう。
 生闘學舎が与えてくれる魅力や感動は、多様な人間の有り様を包括しようとし、見る者の内なるものと呼応する、今はまだ捉えることのできない様々な何ものかにあるように思う。 


①建主(思想集団)と完成にまで導いた島の棟梁親子他の協力者。設計は高須賀晋。②1973~1980年。

③東京と地続きでないこと、流刑の島としての歴史がふさわしいという理由で三宅島が選ばれる。

④次の世代の子供たちのための学校。

⑤⑥本文記述。名称の 자립(チャリプ)は朝鮮語で「自立」を意味する。


棟梁に学ぶ家

 建物の竣工後出版された教科書は伝統工法と技術思想を著わした書として多くの評価を得たが、〈セルフビルド〉の視点からの評価はほとんどないようである。
 自らが建主となり、設計者となり、そしてプロデューサーも兼ねたこのグループの代表者は、この建設と教科書の編纂という計画を〈セルフビルド〉として設定し、否応なく自己がさらけ出されることを承知の上で、自らその渦中に入り、施工を包括しうる新しい建築家像、教師像を模索した。それは同時に他のメンバー(筆者もそのひとりだった)にとっても建築のなかにおける、また生きていく上での自分の位置を探す場となった。

 設計と施工の分離思考のなかにみられる弊害的側面がそのまま教育現場にも及んでいる現状に対しての危機感が彼をそこにかり立てたのであるが、その危機感は決して彼だけのものではなかった。日本においては故菊池安治によって創設された日本建築専門学校があり、アメリカではF・L・ライトによって創られたタリアセンによって、実践して建築を学び、人間として成長していけるような場としての環境がつくられていた。「棟梁に学ぶ家」は、宮下棟梁を師とし、それらのことを〈棟梁〉に学ぶことから始めようとしたのだろう。そしてそれは、きびしいその土地の風土や条件のなかで、マイナスをプラスにする思想を育て、部分の集積だけではないまるごとの自然、一者としての建築に生きてきた〈棟梁〉によって可能となったのである。

①棟梁に学ぶ家」グループ。建主は設立準備会(11名の出資者で構成。設計は深谷基弘(グループと建主の代表、元日大芸術学部教授)+高橋靗一。棟梁は宮下英雄。

②1983~86年 ③二宅島。

④建築を学ぶ人たちのための研修所(竣工後、日本建築学会に寄贈された)。

⑤棟梁の技術思想を次の世代に伝えるため『木造伝統工法-基本と実践』(彰国社)として編纂される。

⑥木造伝統工法二階建


山谷労働者福祉会館

 寄せ場の労働者はある意味で組織とか秩序といった言葉から最も違い存在と言えるかもしれない。しかしその一方で、土木・建設産業を中心とする生産システムの末端に封じ込められ、巨大な日本の経済体制の根底を支えている。そうした労働者が、最末端ではなく、一消耗品ではなく、自らの命である労働力を捻出して、いわば建主といってもよい立場で、ある時は取っ組み合いのケンカをし、ある時は共に喜び合いながら文字通り自分たちの頭と手と全身を使って建物の建設に参加した。そして、資金と労働力とそれ以外の様々な形の支援を受けて、それらすべての力が個人の利害を超えた、あるいは超えようとした総体となって完成へと導いた。それは寄せ場労働者を組み込んでいる既存の生産システムの起承転結のプロセスを逆転させたものとして見ることができるだろう。
 そして、それはまた、長い歴史のなかで排除され闇に葬られてきた者たちの思いを背景として、寄せ場労働者とそれを支援しようとする人たちが、その依拠する場から生み出した産物であり、試行錯誤による建設過程と、様々な問題を含んでいる今後の会館運営を含めた形態そのものが、寄せ場の文化のひとつの現われと言えるかもしれない。
 また、こうした困難な建設を、暴力団との抗争が心配されるなかで引き受け、設計監理という職能を超えて、施工と施工管理にまで踏み込んで完成に至ったその試みは、〈セルフビルド〉の仕事を引き受けた建築家がどのような役割をはたせるかを考える上で、貴重な経験をふんだと言えるだろう。

①建主と山谷を中心に全国から集まった労働者、建主は会館設立委員会(日本基督教団、働らく仲間の会、山谷争議団ほか)。設計は宮内康建築工房

②1986~90年 ③東京都台東区日本提(通称山谷)。

④医療・労働相談所、礼拝堂、多目的ホール、会議室、食堂。

⑤寄せ場労働者の健康・権利の養護及び自立、解放、文化の自前の拠点。

⑥鉄筋コンクリート。二階建、資金と労働力のほとんどをカンパでまかなう。


ログハウス

 ログハウスは北米大陸では移民者、開拓者の象徴ともいえる建物である。一方、日本におけるログハウスは、最近増えつつある2×4工法と並んで、〈セルフビルド〉のなかでも最も一般的な建て方だと言える。

 それだけに様々な動機や目的や方法で作られており、それ自体が多様に生きている現代人の情況と時代性をよく映し出している。建設過程で味わわれる様々な感情・感覚を挙げてみれば、男のロマン、冒険心、本能の回復、父権の回復、スポーツ感覚、全身運動、自然との対話、友人家族との対話、精神集中と発散、充実感、開放感、やすらぎ、喜び、遊び、逃避、ファッション性、ステータスシンボル、等々。

 また、自給自足の精神、エコロジー的考え方、カウンター・カルチャー運動、商品化住宅への批判・対抗意識、などの背景、さらには建設費が足りない、安く上げたいという経済的理由、など様々である。
 そして、それはとりもなおさず現代人がいかにこれらのものから疎外されているかを物語っている。人は様々な方法で疎外されたものを取り戻そうとする。おそらくログハウスの自力建設はその最良の方法のひとつと言えるだろう。また、本来人間にとって、手を使って物をつくること、とくに住まいをつくることは最も根源的な営みのひとつだったということを思い起こせば、それは、つくるという原点からの現代の見直しであり、そのなかでどう生きるかを発見していく場とも言えるだろう。

①個人というより、家族、友人、同好グループであることが多い。

②ゆとりとか自然への回帰が語られるようになった1970年以降。

③都市を離れた場所。④住居、別荘が主。時に都会からのがれた什事場。

⑤本文記述。⑥正確には木壁組積造。基礎や屋根などは専門業者にまかせる例が多い。電柱や枕木、原木の伐採から始めるやり方から、キッド化されたものを組み立てる方法まで多様。最近、ログビルディング・スクールが増えてきている。


★ツーバイフォーエ法は主に2インチ×4インチの断面をもつ角材を使って枠を組み、それに合板などを打ちつけることによってパネルとし、それで壁を構成していく工法である。在来工法とか軸組工法と呼ばれる柱と梁で構築される工法と違い、技能を要する組手や継手をつくる必要がなく、つきつけた材と材を釘と各種の金物で締結し、強度を保つものである。Do it yourself(DIY) の考え方の強いアメリカやカナダでは2×4工法が一般的で、その供給システムはかなり浸透している。日本においても、建築法規の改定やDIYの普及やハウス・メーカーの参人などによって、2×4工法による建築が占めるシェアは年毎に増えつつある。


岩窟ホテル高荘館

 古墳時代後期の代表的群集墳墓で知られる吉見百穴(埼玉県)に隣接する山腹に、人工の洞窟が彫られている。三代150年をかけて、三階構造の建物にする計画だったというこの洞窟には、床から連続に、テーブルと花瓶が一体となって掘り出された部屋がある。峰吉はその部屋を「研究室」と呼んでいたという。まわりからは「狂人」「変人」という目で見られ、その掘り出したものは幻想としてしか理解されなくても、彼自身にとっては科学者の心をもって探り当てた彼の現実であったのではないだろうか。

 21年間にわたる、無言の時のなかでのきびしく孤独なその作業は、あたかも内なる闇としての、あるいは迷宮としての深淵な内部世界を探索するドキュメンタリーのようである。その意味で岩窟ホテルは、フランスの「理想の宮殿」やアメリカの「ワッツタワー」などと同じ線上にある〈セルフビルド〉と言えるだろう。そして、それらの建物はある意味でかたよりのある独学と独力によって形成された彼らの方法、意志、思想を基盤として、それぞれの独特な装飾、造形を生み、まるで生きもののように増殖する有機的な建造物として作りだされた。

 それはまた、彼らがその人生の中でいやおうなく持たざるをえなかった執着的なエネルギーを、極私的表現のなかに封じ込めていく過程をたどったモニュメントと言うこともできるだろう。峰吉が掘った穴は、彼の死後その息子によって、戦時中に連行されて朝鮮・中国の人たちの手で掘られた軍事用地下工場の穴とつながれた。昔この地に生きた古代人たち、異国の地に連れてこられた人々、そして峰吉によって掘られた一群の穴たちは、吉見を訪れる人々に、今もその想いを伝えている。

①高橋峰吉(安政五年~大正一四年)というひとりの農民。

②明治三七年(1904)~大正一四年(1925)。

③埼玉県吉見町。古墳時代後期の代表的群集墳墓で知られる吉見百穴に隣接する山腹。

④はじめ野いちごの醸造用冷蔵庫として掘られ始めたが、その後「人工名所」として公開される。現在は危険なので立入禁止。

⑥凝灰岩質砂岩の山腹をツルハシ、ノミなどによる手作業で掘った。名称は「岩窟掘ってる」をもじって、ホテルと呼ばれるようになった。


★理想の宮殿
フランス、オートリーブの郵便配達夫ジョセフ・フェルディナソ・シュヴァルが、1879~1921年の33年間にわたって、拾い集めた石やガラス片、レンガ、コンクリートなどを使って、独力でつくり上げた宮殿。彼にとってそれは最後の安息場所としての墓となるはずだったが、公共の墓地以外への埋葬が禁じられていたため、集合墓地近くに新たなモニュメントをつくり、結局、死後そこに埋葬されている。シュヴァルのヴィジョンは、万物のハーモニーに感謝して捧げられたものだという。



★ワッツタワー
イタリアからの移民である日雇い建設作業員シモン・ロディアがロスアンジェルスのワッツにある黒人ゲットー地区の一画に、1954年までの33年間にわたって鉄筋や針金を使って建てた塔。クサビ形の狭い土地のなかで、天上にのみ解放されたようにそびえ立つその塔の下部は、コンクリートで覆われ、拾われた石やガラス片、食器、貝殻などで飾られている。現在は国の記念物の指定を受けている。


 まとめ

 

〈セルフビルド〉の建築は、自力と他力、個人と集団、人間と自然、精神と肉体、頭脳労働と肉体労働、技術と思想、部分と全体、幻想と現実、混沌と秩序、などの相互のぶつかり合いのなかで、それぞれを超え、超えられつつ形成される二重ラセン状のサイクルのようである。それは物質界と生物界をつなぐ絆としてのDNA(デオキシリボ核酸)の互いに逆向きになって対をなす二本の鎖状の螺旋構造を思い起こさせる。

 〈セルフビルド〉は、そのなかに身を投ずることを意味し、必然として試行錯誤を経験することになる。

 失敗と成功、落胆と喜び、醜態と自信を経ながら、地道な作業を繰り返していく。そうした場で避けがたくさらけ出される現実 ― 分業や契約はこうしたトラブルを避け、効率と合理性を計るためのものでもあったのだろうが ― は、その人以上でも以下でもないその人自身によって露呈された現実であり、それを受け入れ、省み、責任をもつことによって、人はより深く自然や人間や社会を認識していけるのではないだろうか。そしてその認識は、個々人の感受性やそこに向かう必然性の違いによって多様な結果となって現われてくる。

 仕事と私生活、都市と自然というように区別、分断された生き方や思考が当然のようになっている現代人が、あるいはまた様々なものから疎外されて生きざるを得ない現代人が、長い時の流れのなかで失ったもの、失った自己像を取り戻し、世界を観る眼を獲得するためのひとつの試みが、〈セルフビルド〉と言えるのではないだろうか。そして、そう考えると「セルフビルド」は、ビルドを他の言葉に置き換えることによって、建築には留まらない広がりをもった、様々な可能性を示していると言える。しかし、その現実は、苛酷であることもまた確かだろう。